読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

はなたのオールドロマンティクス

映画みて、感想をブログに書いてます。NetflixやHuluで観ることもあり、その場合はカテゴリに表示しています!

映画『ブルックリン』のエイリッシュはずるい女なんかじゃない

ブルックリン

出演: シアーシャ・ローナン, ドーナル・グリーソン, エモリー・コーエン, ジム・ブロードベント, ジュリー・ウォルターズ
監督: ジョン・クローリー

2016年 アメリカ

 

 

とにかく色彩の綺麗な映画。出て来る人たちの衣装の色彩、景色、小道具、すべてが美しい。

そしてなにより シアーシャ・ローナン演じる主人公、エイリッシュの瞳の色が美しい。

 

ところでこのエイリッシュについて、ずるい女だとか女は怖いとか書いているブログを散見したので個人的な意見として反論すべく今回は筆を取りました。

あらすじ

アイルランドの小さな町で母と姉と住む主人公は仕事もなく、恋人もおらず、閉塞感のある日常を送っている。でもこの日常とももうすぐお別れなのだ、そう、彼女は教会の神父さんの手引で、アメリカに渡り、ニューヨークで仕事を得てそこに住むことになっているのだ。年老いた母を残して最愛の姉と離れる寂しさと、見たことのない街への憧れと不安の中で船に乗るエイリッシュ。

 

 

ネタバレする感想

※ゴリゴリのネタバレなので、気にしない方か鑑賞後の方のみご覧ください

エイリッシュ、めっちゃいい子なんだが

とにかく主人公がちゃんとしていていい子なので安心して美しい景色や衣装、小道具に心を踊らせていられます!不器用なところもあるけど基本的に真面目でしっかり者。

そこがなにより大切なポイント。

ナンパしてくるチャラそうなイタリア男にも冷静に対応。この男性が意外と良い奴なところとかも本当にほっこりします。

基本的にはこのしっかり者なエイリッシュちゃんがホームシックを克服しながら、イタリア移民のトニーと恋愛するシンプルなストーリー。

 

大好きなローズ

簿記の試験にも合格して色々順風満帆な最中に、突然の知らせが届きます。故郷の姉の死。

主人公は初めてのトニーとのデートでこんなことを言っていました

「姉は私よりキレイ。姉がいたら、私なんかに声はかけなかったんじゃないかしら」

なるほど。

この言葉を聞いて、私は少し、最愛の姉ローズが彼女にとっての重荷でもあったことを知りました。誰からも愛されて優秀な姉と居たことは、彼女が一人きりの自分だけの力で人間関係を築いたり自信をつけたりすることをこれまで少しだけ妨げてきた面があるのかも知れません。

しかし渡米によって強制的に姉離れしたものの、二度と会えなくなるなんて、残酷です。

姉の不在によって、故郷に残した母と自分との関係を整理しなければならなくなります。

 

 

アメリカでの生活を約束すること

トニーは姉の葬儀のためにアイルランドに戻るエイリッシュに結婚してほしいと迫ります。まあなんかこの辺りはオイオイ、トニーくんどうしちゃったの?と思って見ていたのですが

船に乗って渡ってしまえば満足に連絡も取れない状況で彼女を旅立たせる前に約束したかったということなのでしょうかね

 

まあそれで結婚してからアイルランドに戻るわけですが

この結婚というか今後アメリカで生きていくことを決める=母とは離れて生きていく

という宣言なわけですよね。

 

誰がカマトト女だよ!そうさせたのは誰なんだ!

そこで本題ですよ

 

アイルランドに戻ってから結婚したことを誰にも告げずに地元の男と付き合っていることを女は怖いな~的に受け止めている人が居るのを見てこの記事を書こうとしたんですよ

 

いや、ちょっと待ってくれよ。だって、どこがカマトト女なんだよ?

お姉ちゃんが死んじゃったばっかりのお母さんに結婚してきたこと、アメリカで一生暮らす決意を決めてしまったこと、言えますか?

言えないよ。しかも、そんな話をするタイミングも与えてくれずに、近所の男をせっせと勧められて、どうしたらいいのか分かんないよ。

 

地元の友達も近所の人も、みんなみんな、誰も話なんか聞いてくれずに

あの男と結婚してどこに勤めて母の近くに住めって勝手に言ってきただけ

 

従順な女性でいること

このアイルランドの故郷での風景は、どこかで見たことがあるなあと私は思いました。

これは、自分の場合は、親戚の集まりだな。

進学や就職は近所にしろとか、婚期や様々な個人的な問題に関してああしろこうしろと自分の持ち物みたいに、それが「指図していること」であると自覚もせずに発言するおじさんやおばさん達。

 

必ずしも女性だけが年長者から指図されると言いたいわけではないが、得てしてそういう場合は多いのではないだろうか。

 

エイリッシュは賢いからいつもそこで啖呵を切らずに黙って従っているけど、それがずるい女だとでも言いたいのでしょうか?

 

アメリカを選んだ理由

だから、別にどっちの男が好きとか嫌いとかじゃないんですよ。

 

ゴルフコンペの賞の名前になった姉は誇らしいけど、自分の人生とはそんなに関係ないと思って生きていきたいじゃないですか。実際、これからの人生は全然違ったものになるんだから。

 

この気分を受け入れてくれる場所で生きていけることが彼女の幸せだし、

それがたまたま海を渡った先にあったということだけではないですか。

 

もちろん、最初からそんなこと分かっていたから結婚してから故郷に帰ったのです。

(ちょっとだけ、故郷も悪くないのかなって年老いた母の顔を見ていたら思ったけど)

 

だからね、男を値踏みしたりしてないと思いますよ。

別にエイリッシュが可愛くて真面目で好きなタイプだから弁護するのではなく、

彼女は賢いから、本当にアメリカと故郷を天秤にかけるような自分がいたなら、うまくトニーをなだめすかして書類の結婚まではせずに故郷に帰ったでしょう。

 

そうではなく、生まれ故郷ではないアメリカで、本当にこれが自分の人生だと言いたくなるような自分に出会ったからなのだと思います。

それは、今まで生きてきてよくよく知っている故郷には居ない自分だったということを分かっていたから、そうしたのです。

 

ちょっと熱くなっちゃいましたけど、

エイリッシュちゃんがずるいカマトト女だとしか思えないで見るのは、つまらないですよ。あんなに綺麗なんだからな

 

 

 

ゴーン・ガール

ゴーン・ガール

2014年 アメリカ

監督 デイビット・フィンチャー

出演  ベン・アフレック, ロザムンド・パイク

 

前から見たかった映画、Netflixに新着で来ていたのでさっそくみました。

途中で止まれない映画です。めちゃくちゃおもしろかった~

 

あらすじ

ニューヨークで出会った夫婦はお互いに華やかな業界人と言えるライターだった。

ハーバード大を卒業している妻は美しく、作家として成功した両親を持つ。しかも子どもの頃から母の物語の登場人物のモデルとして注目されて生きてきた。

ところが結婚生活3年目を過ぎた彼らはお互いに職を失い、家庭の事情から夫の故郷へ移り住む。田舎町に友達のできない都会育ちの妻は、故郷に馴染む夫を憎んでいく。

とても深く、丁寧に、綿密に彼女は憎み、そのことに夫は気づいていない。

彼女の憎しみの深さが明らかになってからは、手遅れになっている。・・・というような話であります。

 

 

ネタバレしながら振り返る

事実か記憶の塗り替えか

※これ以降ゴリゴリのネタバレありなので、鑑賞後に読むのをオススメします。

 

 この映画にはいくつか不思議なところがある。

妻が失踪した朝から順を追って起こって行く出来事とは別に挿入される回想シーンが、全て事実かどうかという点だ。

一番代表的なのは子どもを望む妻対して夫が、「子どもは夫婦関係を修復するための手段じゃない」みたいなことを言って突き飛ばすシーン。

暴力かどうか微妙な感じなのと、話の内容が必ずしも夫が子どもを望んでいないわけではないところが難しい。

まあでも実際の人間関係でもこういった記憶の相違はありがちかと思うので、リアリティがあるなと思って見た。世の中には仲の良いだけの夫婦がきっとたくさんいて、このシーンにリアリティがあると思って見るのは珍しいのでしょうか?

私は個人的には、このぐらいの揉め事は年に一回ぐらいはあるなあ、リアルだなあと思って見た。

 

本当の自分じゃない

パーティーで出会った二人、すぐに親密になるものの彼女は彼の顎が気に入らないと言う。割れている顎を「悪役のようだ」と言うのだ。けっこうひどい。

でも彼は気にしないでキザっぽく顎を隠す。

エイミーのために用意された顎の割れていないニック。

 

多分、妻のエイミーもまた自分を偽っている。自分の殺害を仄めかした現場を残した後、人相を変えるためなのか?スーパーで買ったジャンクフードをドカ食いしている。

たった数日間の出来事を描いているのにエイミーは太ったり痩せたりブスになったり美人だったり変貌が激しくて女優のロザムンド・パイクは素晴らしい。

でも低所得者向けのリゾート施設みたいなコンドミニアムではすぐカツアゲされてしまう。悔しがって枕の中で叫んでいるエイミーがいかにも本当のエイミーっぽい。

本当のエイミーは絵本のモデルにされたことも夫が田舎に引っ越してダサくなっていくことも心底最悪だと思っている、不機嫌で高飛車な女である。それが原因で夫が下らない女と浮気したことも理解はしていて、その上で次の手をどう打つか、考えるのを止められないのだ。

 

偽の殺人現場で死んだのは誰か

エイミーはDVを仄めかす日記を用意して、綿密に自分が殺されたかのような現場を作る。

そこでは本当は誰も死んでいない。

しかし本当にそうだろうか?エイミーが望んだのは田舎に引っ越してきた思い通りにならないバカな夫に罰を与えること、その結婚生活をめちゃくちゃに破壊すること。

そして後から夫の罪を補強するために自らも水死しようとして失踪している。

 

ということはその現場では決意の上ではエイミーは死んでいる。殺人という罪においては無罪な配偶者にでっちあげの罪を作るには通常自らの死が必要なのだ。それが浮気した男であっても。

人を呪わば穴二つ、ということだ。

そのことにエイミーは苦しむ。なぜ自分が死ななければならないのか?と。

 

この悩みは難しい。しかしバカバカしい。

まあ普通に考えれば浮気されて憎くても、それを理由に離婚するなりして自分が自分の生活を変えていけばいいだけなのだ。しかし彼女はどうもそのコントローラーのようなものが壊れている。

おそらくその自己像と等身大の自分との乖離をコントロールできない理由としては絵本のモデルとして知られて育った過去がある。

 

この「有名な人気者として育った経緯」がどれだけ彼女のサイコパスさを補強するのかは謎だが、エイミーが殺したいほど憎む相手は夫ではなく。自分自身のどこかの部分ではないかと考えると、完全な一人相撲である。

 

エイミーの帰宅

エイミーはカツアゲされたあと、お金がなくなって仕方なくかつての同級生で自分のストーカーみたいになっていた大富豪の男に泣きつく。

人目のつかない別荘で優しくもてなされておきながら、その男から暴力を振るわれている証拠を一生懸命一人で頑張って残す。その必死さたるや凄い!

最終的にその男をセックスの最中に殺して、血だらけで帰宅して「誘拐されていた」と言う。すごい。

 

夫はさすがにその嘘に気づいているから、ドン引きして自分も殺されると思うのだが

病院に預けていた自分の精子で勝手に妊娠されてしまってアラ大変

 

夫の双子の妹はその結婚生活から逃げろ!と言うのだが、責任があるからと言って彼は踏みとどまるのだった。双子の会話は、一人の人物の葛藤を表している。

 

これが結婚の比喩かどうか

この映画を見た人が「結婚ってこわーい」「女ってこわーい」と言うのは多分お門違いである。

まあ確かに結婚生活をテーマに描いているし、一緒に住んだり色々な変化があれば摩擦もある。

しかしこの映画は個人的な深い問題を抱えた美女と結婚してしまった男の話であって結婚生活の話ではないと思う。

エイミーほどのストイックさで計画を実行に移すほどの自己の鍛錬は、幸いにも、通常の人は持ち合わせない。しかし時々そういう面があることを誰にも隠して魅力的に振る舞う人というのはきっと実在する。そういう人と結婚してしまわないとは誰も言い切れないというのがせいぜいの事実であろう。

 

あとは支配的になった配偶者を前に子ども等の責任のために退路を絶たれるというのはきっと事実だと思う。

しかしその場合の配偶者の振る舞いは、この映画のエイミーよりもきっととても優しいものである場合が多いだろう。

そういう意味ではきっとゴーン・ガールより幸せな結婚ができる可能性のほうが高いのではないだろうか。希望が持てる映画ですね!

 

 

非常に楽しみました。

こういう映画を楽しむ自分に出会うと、きっと海外ドラマを見たらもっとハマってしまうんだろうなと心配になる

 

 

 

 

ショートフィルム 岸辺のふたり

岸辺のふたり

2001年

監督 マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィッド

あらすじ

あらすじ も何もこの映画はたった8分間で、ナレーションもセリフもない。

気が進まなかったからリンクは貼らないのだが、動画共有サイトにもある作品なのでぜひ見て欲しいと思う。絵本やDVDも販売している。たった8分間の作品だが、私もDVDを持っている。(アマゾンだと高騰しているが・・・)

 

いちおう物語の筋を書けばこういうことになる。

父と水辺で永遠の別れをした娘は、流れる季節と歲月の中で、父の旅立った岸辺を繰り返し訪れる。強い風の中で急な上り坂を力強く越えて訪れ、その帰りを待っている。

ナレーションも何もない映像だが、アコーディオンの音楽がその歲月を表す。

繰り返し訪れる中で様々な日々を娘が経験していることが描かれる。

ついにいつも乗っていた自転車を押してその岸辺を訪れると 父が旅だった水辺が干上がっており、胸まで伸びた草の中を進むと父の乗っていたボートがある・・・。

 

 

ネタバレありの感想

本質的な要素

 色々な映画を見て、色々な人物や人間関係が描かれているのを見ている中でも よく描かれている人間の本質として根本的なものはこの8分間の中に閉じ込められていると感じる。

あるいは、この「岸辺のふたり」の中に描かれているような要素が全く欠落した人間が描かれている、というようなことを感じることもある。

それほど親、あるいは父への憧憬、言い換えればもしかすると根源的な承認欲求のようなもの 何かに守られて生きていっている認識のようなもの が人に与える影響は大きい。

 

長い離別

 何のセリフもナレーションも無い、とても短い作品であるにも関わらず、この物語に引き込まれてしまうと数時間の映画を見た後と同じような・・・場合によってはそれ以上、数日かけてのめり込んで本を読み終えた時の読後感にも近いものがある。

 この映画は人と人の離別の物語である。

 

離別は、単なる別れてそれっきりのものではない。

繰り返し父の旅立った岸辺を訪れる娘は「父として機能していたもの」を思い返し、そこによりそうような姿だ。旅立った場所に来るという行為は墓参りみたいなものなのかも知れないけれども、より抽象的で精神的な印象を音楽やシンプルな線が際立たせている。

 

個人的にはこの作品を10年前に見た時には、この離別をただ抽象的な、一般的な事象の一つとして捉えていた。

しかし、この10年間の間に自分自身の身内の不幸や様々な出来事からか、死に代表される「別れ」に関するこの映画の解釈にますます心を揺さぶられた。

 

再会の姿の解釈

この映画は最後に親娘が再会するシーンで幕を閉じる。

二人が乗ってきた車輪が人生の円環のようなものを表象しているとも思うし、所謂「お迎え」のようなかたちで彼岸にいる父が迎えにきたという解釈で良いのだろうと思う。

 

そこで面白いなと思うのは、再会するときの二人の姿だ。

老婆になっていた娘は父に駆け寄りながら背筋が伸び、若返っていく。

娘はかなり小さな時に父と別れているはずなので小さな背丈の幼女になるかと思いきやそうではなく、成人女性の姿で父と再会する。父もまた、変わらぬ姿だ。

 

このシーンを見て連想することは、人が「その人らしく」ある時、というのが人生のいつなのか という問題である。

まだ言葉を話さない期間、幼少期、思春期、青年期、壮年、中年、老年・・・。色々なそれぞれの「その人」の瞬間がある。

どれもその人の人生に違いないのだが、「その人そのもの」である時というのは思ったよりも短いのではないだろうか・・・。と考える時がある。いつまでたっても「その人らしさ」を失わない人もたくさんいるけれども・・・。

そして、自分もいつまでもより、自分の中の最高の「自分らしさ」を持っていたいなと思うのだけれども。

 

なんとなく最後のシーンで抱擁する二人は、「その人そのもの」の姿で出会っているように見える。 

離別することへの温かな眼差し

 

大人の姿になって改めて出会う二人だが、その間には深い関係性があり、その繋がりが絶たれていたわけではないことを感じさせる。

 

それは幼少期のみに築いた二人の関係から出発して、別れたあとも、岸辺に寄り添うことで大人になってからも「父であったもの」との関係が発展させられていったからに他ならないからではないだろうか。

 

この映画には、長い長い離別の間には、そこに居ない人との関係を更新することもできうる という大切な人を失った時に寄り添いたい温かな解釈が語られていると思う。

 

ナイトクローラー

ナイトクローラー

2014年 アメリカ

監督 ダン・ギルロイ

出演     ジェイク・ジレンホール,レネ・ルッソ,リズ・アーメッド,ビル・パクストン

 あらすじ

他人への不信感の塊みたいな男が資材を盗み、安い車に乗って盗品を売りながら生きている。もっとお金が欲しい、いい車に乗りたいと思いながらいると、偶然通りかかった事故現場でスクープ映像を撮る男に出会い、同じ仕事をしようと思い立つ。はじめは上手くいかないのだが徐々に撮影技術や要領を得てテレビ局に映像を売り込むことに成功する。部下も増える。もっと刺激的な映像を取ってもっと高く売りたい・・・。過激な映像を求めるのは視聴者がいるから。それとも彼が求めることだから?彼の欲望は果てしなく増大し続ける。

というような話である

 

Driveと似ている設定

この前 映画Driveに関して書いたのですが、設定はかなり近い。

素性の知れない男が一人でL.A.に住んでいて車を運転している。

Driveの主人公がそこから素朴に近所の女性に一目惚れするのに比べてこのナイトクローラーでは出会う他人をずっと威嚇し、侮られないよう、いかに自分に従わせるかに固執し続ける。

対照的な二人だが、どちらも魅力的な人物で Driveに劣らずナイトクローラーも面白い。

hanaeiga.hatenablog.com

 

ネタバレもする感想

※これ以降はネタバレありですので鑑賞後に読むのをオススメいたします。

何も持っていないルイス

本当に胸糞映画だと思う人もいるだろうし、色々な要素がある。

主人公のルイスは本当に貧しい人で、それは金銭的な意味だけではなく、善悪の判断も社会的な文化資本的な何かも何もかも持っていない。という意味で。

彼は何かを持っている人にそれを見せびらかされるのに我慢できない。

何も持っていないから失うことも怖くないし、失うものがある人も我慢ならない。

倫理に反する映像を求めたのは誰か

どんどん足を踏み外す感じで過激な映像を手に入れるために手段を選ばなくなるルイスなのだが、彼自身が残虐なことを好んでいるかと言えばそうでもない。

ただ、気にならないだけなのだ。

むしろ残虐なものを求めているのは視聴率を求めるテレビ局であり、もっと言えば一般の視聴者が求めているものでもある。

ルイスはそのことだけを指標にして仕事をしていて、ブレーキがなく、猛烈にそこに突撃していっているだけの存在に過ぎない。

 

彼から全てを奪ったのは何なのか

ここまで来て、もう一つべつの映画が思い浮かぶ。それはスコセッシのタクシードライバー。

あの映画の舞台はニューヨークだけど、あの主人公も何も持っていない。

でも彼が何も持っていない理由はベトナム戦争だ。

アメリカが勝てなかった戦争で傷ついた兵士は英雄としては認められずに時代の隙間に落ちていったと言われているが、

そんな傷ついて何も持てない男がハンドルを握る姿というのが繰り返し色々な映画の中に登場する。

このナイトクローラーのルイスがなぜこうにも空虚な内面なのか知るよしもないのだが

歴代の素晴らしい映画が物語ってきた人物像にどこか重なるものがあるのかも知れない。

 

君の名は。

映画館でみてきました。面白かったです。

 

君の名は。

2016年 日本

原作・脚本・監督 新海誠

声優 上白石萌音神木隆之介

あらすじ

ド 田舎の小さな町に住む女子高生、三葉(みつは)はある時から東京の男子高生、瀧(たき)くんになった夢を見る。とてもリアルな夢だ。瀧くんもまた三葉とし て一日を送る夢を見る。しかしどうも夢ではないようだ。二人は時々お互いの身体を入れ替わり、全く他人の生活に苦労し、あるいは楽しみながら、相手に自分の生活を垣間見られる恥ずかしさ の中でなんとかやり遂げていた。しかしある日を境にその交換は起こらなくなる。三葉として目覚めない瀧くんは電車に乗って彼女に会いに行くのだが、どこに も彼女の住む町は無い。なぜ無いのか?三葉はどこにいるのか・・・?

 

 

 

ネタバレありの感想

二人の高校生

それぞれ東京の四ツ谷あたりと岐阜のどこかの町に住む二人は、全然違った日常を生きている。

しかし共通点はいくつかある。

・面倒見の良い友達がいること。

・他人の生活を押し付けられても投げ出さない真面目さがあること。

・母親がいないこと。

・相手の日常に居る時のほうが、いつもよりちょっと生き生きすること。

 

最初の二つは物語の進行上欠かせないとして、母親の不在はなんとなく平凡な高校生にしては少し大きな空白がある印象。相手の生活を楽しめるのは、お互いの「ダメなところ」を指摘する代わりに自分で行動してしまうところが伺える。

 

二人の関係

直接会うことなく、お互いの家族や友達、日記を介してだけ相手と触れ合う物語の進行は、新海作品の「ほしのこえ」とか「秒速5センチメートル」とかと同じである。

相手には会えないけど、遠くから遅れて届くメールや手紙を頼りに「弱い」コミュニケーションをする、という設定にしては顔に悪態を書いたりして軽やかに親しげに描かれている。

 

ところで物語の後半、一度は彗星の落下によって町もろとも死ぬ運命の三葉だったが、入れ替わりの相手である瀧くんの頑張りでそれを免れる。

亡き母の実家である宮水神社の家系には代々そういう入れ替わりが起こる、ということが語られるのだが、何か超常現象的な宮水神社の力によって彗星落下の犠牲者が救われる、ということなのだろう。

瀧くんは間違いなく三葉をはじめとする糸守町の人々の命の恩人である。

 

ではなぜその役目が瀧くんである必要があるのか?糸守の絵を上手に描けるから?三葉のことを大切に思って全力で行動してくれるから?その役目が終わったら宮水神社さん恩人である瀧くんには何の用事もなくなるの?

 

色々な疑問が思い浮かぶが、まあ二人が入れ替わりながら精神的に結びつけられていること(そもそも何らかの関係が二人にはあるからその入れ替わりが起こるのかも知れない)が何よりも瀧くんと三葉との関係が深く、分かちがたいものである証明そのものということなのでしょう。

 

結びは、恋愛?

深い結びつきによって入れ替わりを経験し、

「三葉を死なせたくない」思いで行動する瀧くん。

もちろん誰でも恋人には死んで欲しくないものですが、それは親や兄弟、友達や恩人でも同じこと。

本当に二人の関係は恋愛なの?という気もする。

 

二人の関係は何か超常現象的なもので結ばれていることは明らかだが、同時に直接会って話すことがままならない大きな壁がある。

いつも心の中を占めている相手がいるのに、すぐに返事が返ってくる会話や直接触れることがままならない不自由さの中で二人はお互いに思いを募らせる。

この状況は、「好きな人」が出来てもマトモに会話もままならないまま勝手にその人を「好き」でいることが好きな状況にとても似ていて、その辺が体中が痒くなる人がいる理由でしょう。

通信制限みたいな中でその不自由さがより燃料となって燃える恋愛っていうのは、恋に恋をしているだけで相手とコミュニケーションしている状態とは言えないでしょうけれども、まあ、楽しいものだし青春の醍醐味みたいなものでしょう。

いつまでたってもやってられることではありません。

 

この二人が大人の恋愛だとしたら不倫みたいなもん

この不自由な二人の関係、何かに似ているな~とずっとモヤモヤしながら見ていたが、不倫カップルのようではないだろうか。

例えが非常に悪くて恐縮ですが。でも面白いと思っているからこそなのですが。

 

なぜ不倫カップルかと言うと、二人が直接会って話せない大きな隔たりの中でコミュニケーションしている不自由さが似ているから。

不倫カップルはもちろん面と向かって話せるが、けっこう不自由。

大手を振って色々な人の前に出ていけず、家庭や未来のことというカップルが当たり前に話し合うトピックを避けなければならない。

でも実はそういう遠慮のある関係だからこそその関係性に於いては楽しく恋愛している場合が多い、かも知れない。

 

だから、この映画で二人が最後に出会った後、日常を二人で生きていってもいいシチュエーションになってしまったらその関係が壊れるのではないかといらない心配をする。

秒速5センチメートルの時のように、ちょっとしたスレ違いで出会わない・・・という方が、二人の関係性には合っているようにも思える。

 

ま、親しき仲にも礼儀ありとかそういうルールを守って取り組めば、二人の間の障害が無くなってもお互いのことで頭がいっぱいになれるような恋愛が可能なのかも知れないが。

 

全体的に

ゲスっぽい恋愛の話にあてはめて書いてしまって大変恐れ多いのだがこの映画はとても良かった。映像はとてもキレイだし全体的にキャラクターもかわいい。

ちょっと音楽が好き嫌い分かれるところだろうけど、これまで書いてきた通りの周囲が見えなくなる恋愛らしき何かを表現するにはとても良かった。

 

Drive

 Drive ドライブ

2012年 アメリカ

監督 ニコラス・ウィンディング・レフン

出演 ライアン・ゴズリング,キャリー・マリガン,アルバート・ブルックス,ブライアン・クランストン,クリスティナ・ヘンドリックス,ロン・パールマン,オスカー・アイザック

 

  

あらすじの紹介

強盗犯の逃走を手伝う主人公は寡黙で冷静、かつ名乗らない。昼間はカースタントの仕事もこなし、横転の演出もお手の物。運転の才能を感じさせるシーンは気持ち良い。

同じフロアに住んでいるシングルマザーとおぼしき彼女と少し仲良くなり、彼女の夫が刑務所に居ることを知っても動揺しないドライバー。徐々に彼女との距離は縮まるが夫が出所してきたところから、静かなドライバーの生活が変わる・・・

 

ネタバレありの感想

音楽

 初っ端からめちゃくちゃかっこいいと思ったのは、音楽。

と言うかそもそもDVDのジャケットを見た時点でそのクールなヴィジュアルとPVを作っていた人が作った映画という前情報から、めちゃくちゃスタイリッシュな映画なんだなという想定で見始めたのですが、音楽のかっこよさとか幸せなシーンの美しさの印象を後から全て覆い隠すアクションと破壊力満点の暴力シーンにびびったのであった。

 

Nightcall

Nightcall

  • Kavinsky
  • エレクトロニック
  • ¥250

 

バイオレンス

強盗犯を逃走させるという物騒な仕事をしていながら、銃を携帯しないドライバー。

 

同じフロアの女性、アイリーンの夫であるスタンダードが刑務所から出てきたことにより、このままドライバーとアイリーンの仲が深まるということは無さそうだ。

叶わない恋だったんだなと爽やかに二人の関係が終わるかと思いきや、ある晩、スタンダードは何者かに襲撃されており、その場に息子のベニシオが居た。

優しいドライバーはベニシオを気遣う。するとベニシオは銃弾をドライバーに見せて、スタンダードを襲った何者かに「なくすな」と言われたことを打ち明ける。脅しだ。

スタンダードは刑務所の中の借金が理由で悪い人たちに目をつけられていた。

 

ここで関係を絶たないドライバーは、スタンダードの追い込まれた最悪の状況にどんどん巻き込まれることになるのだが、あっさりと銃殺されるスタンダードに比べて、強い。運転の上手さと基本的に素手で立ち向かう振る舞いは悪い人たちのボスには「素人」と呼ばれていたものの、そうとも思えない。

 

物語の後半で大金と女性の安全を巡って争うヤクザなオッサンも銃を扱ったりはせずに淡々と人を始末する。主人公のドライバーと言い、L.A.という大都会で銃を放つのが危険だからなのか?

刑務所に夫が入っても殊勝に支えるアイリーンもドン引きのバイオレンスシーンに、あれ?こんな映画なの?めっちゃオシャレなやつかと思ってたよ・・・という感想を禁じ得ない

キャラクター

この映画の中でいい味を出しているのはアイリーンの息子のベニシオ。

まず、アイリーンと二人でベニシオが居る時、父が不在の段階でもベニシオの顔を見てどんな父親がいるのだろうと思わせる。

もちろんそれだけでなく、ベニシオの存在はドライバーの心を開かせてもいるように感じる。寡黙なドライバーの優しい笑みはベニシオに向いている。

運転の才能と暴力耐性のあるドライバーは、ベニシオのような境遇にあったからこそ、彼を可愛がるのだろうか?というような想像もさせてくれる。

最後までドライバーは名前を明かさず、物欲もなく、クールな存在として去っていくのだが、彼を物語る要素としては アイリーンを愛する気持ちと、ベニシオへの思いやりのようなものが残る。

めちゃくちゃいいやつじゃないか。

なぜそんなにいいやつで、身体、能力的に優れた人がいつでも悲しそうな顔をしているのかは深い理由がありそうだが、明かされないままこの映画は幕を閉じる。

さいごに

というわけで、ジャケットや音楽のオシャレさに惹かれて観るときっと暴力にびっくりすることになるであろうこの映画、しかしながらなかなか楽しみました。

主人公演じるライアン・ゴズリングの静かなほほ笑み。寡黙でありながら、冷たさを感じさせない寂しそうな眼差し。これが中々この映画を彩る重要な要素だなと思った次第です。

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

2003年 アメリカ

監督 スティーブン・スピルバーグ
出演 レオナルド・ディカプリオ, トム・ハンクス, クリストファー・ウォーケン, マーティン・シーン, ジェニファー・ガーナー

 

あらすじの紹介

主人公フランクの16歳の誕生日を目前に控えて、父の経済状況は思わしくなかった。これまでは地元のロータリー・クラブで活躍したり母とも幸せそうだったのに、資金繰りのために息子に従業員を演じさせて銀行に融資を申し込んでは断られる・・・。遂に両親が離婚したことによってフランクは家出を決意し、次々に詐欺を働き、手口はますます大胆になっていく。犯罪に病みつきになった彼を救ったのは誰か?というのがこの映画の導入。

 

 

ネタバレありの感想

フランクと父

フランクの犯した犯罪は大胆かつ巧妙だが、その起源は父にあるということを感じさせる細かな演出が、ぐっとくる映画だった。

両親の離婚前、フランクは私立高校の制服に身を包み、少し内気で真面目そうな少年だった。当時、脱税の嫌疑がかけられたために父の怒りは税務署に向いていた。

同時期、母は父以外の男性と会うようになり両親も不仲に。そんな中でも父は息子に銀行の個人口座を開設させ、小切手と少額の資金を贈り彼の成長を祝った。

 

フランクが愛するのは彼を裏切らなかった父であり、

フランクが憎むのは父の敵である税務署や融資を断った銀行等の権威的なものすべて。

同時に母の再婚相手もまた社会的地位のある人間であり、権威的なものへのコンプレックスが彼が扮装するパイロットや医師、弁護士などの職業に反映されている。

つまり彼は彼の個人的な恨みからではなく、父の仇を取る形で詐欺行為を行っており、その純粋さは彼が高校も卒業していない10代に過ぎない・・・という点に観る者も、彼を追うトム・ハンクス演じるカール捜査官も胸を締め付けられる。

 

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

公開当時映画館で鑑賞した当時は、正直言って単なる大衆娯楽映画だと思った。

にも関わらず、最近になってじっくり見るとそこにはかなり深い人間ドラマがあり、爽やかなメインビジュアルや楽しげなタイトルとはかなり遠い印象だった。とても、いい意味で。とても良い映画だと思った。

 

追いかけられる主人公は犯罪を繰り返すことに中毒になり、本人に足を洗う意志があるにも関わらず、それを父親に応援してもらえないことに苦しんでいるシーンが印象的だ。

彼は父に懇願する、もう辞めろと言ってくれ、と。

しかし財産も妻も、品行方正な息子も失った父は決してそう言わない。

 

***

子どもの心身の健康や自己の尊厳を守ることを、親が辞める時、諦める時、その余裕を無くした時。

誰にでもその時は訪れるが、それが適齢期でも死別でもない時に子どもは苦しめられる。それまでが理想的な親であったならばあるほどに、自分を見てくれない親に失望し、いつまでも期待する自分を自己嫌悪する。

 

というような時期に、彼の精神的な親となるのがカール捜査官である。

彼は後の逮捕後に身元引受人になってくれる等、失われた父としての役目を惜しみなく演じてくれる。

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は単なる犯罪を楽しむ犯人が捜査官を挑発する言葉ではないのだ。

追いかけてきてくれる人の無い孤独な子どもが、誰かに向き合って欲しくて自分(の犯罪歴とか社会的信用とかを)を傷つけながら大声で泣き叫んでいる痛々しい言葉だった。

 

実話とのことで

最後のシーンでモデルとなった人物が登場している。

映画の最後でも紹介されている通りの逮捕後の人生を送り、多くの功績を残しているとのことでそれもこれも、彼を追いかけ続けた人があってのことなのだろう と、思わせる映画であった。本当にそうかどうかは、全然分からない。

 

まあでも高い知性と自己顕示欲のある人は社会的成功を収めやすいので、

何も彼の活躍の場は犯罪行為ではなくても良かったということなのでしょうね。

このyoutubeの動画は、映画キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャンの冒頭のもとになったと思われるテレビ番組。

 


To Tell the Truth: Frank William Abagnale Jr. (1977)

なんかこんな番組、人が死んだりしていない犯罪だからとは言え ゆるいなーと思う。

今もこういう番組あるんだろうか?2003年頃に映画館で見た時はさほど違和感を感じなかったので、この10年間ほどで随分とパノプティコン的な世の中の風潮が強くなったんだなと感じるな。

そもそも、彼の犯罪自体がとてもゆるい時代背景に成り立つものでもあるし。

偽造困難で厳格なセキュリティや衆人監視的世の中の背景には彼の犯罪、あるいは釈放後の仕事が一役買っている、と言えるのかも知れない。

 

犯罪がなくなることは望ましいけれども、色々な形に変えて現れる人間の孤独から脱出したい苦しみやその叫びが、どのようにかして誰かに届くようでなくてはならないと思う。

何か声を上げたらすぐに検閲されて閉めだされるのではなく、犯罪行為を通してでも精神的な父と出会えた劇中のフランクのようなことが誰の人生にも当たり前に起こりうる世の中であってほしいと、スピルバーグ以外の人たちも望んでいるだろう。